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ドクター早川浩之

桜と日本人


私のクリニック「早川浩之の内科医院」の周りには、桜が咲き誇っています。長い冬を耐えた桜の精も私たちも、待ち望んだ春の訪れです。

青空を背景の満開の桜は喜びにあふれ、夕桜は儚く、夜桜が曲水に映えるのは妖しげです。一説によれば、日本人は歴史を文字に残すようになった時には、すでに桜が大好きだったのです。

お花見に出かけたり、宴を開いたり、桜をこんなにも楽しむ国は、世界約200カ国の中で、日本だけではないでしょうか。

花びらを食したり、桜のチップで染色をしたり・・・。

桜にまつわる美しい日本語の数々は、ほかの言語には翻訳が難しいようです。

花冷え、花曇り、桜吹雪、花明り、花嵐、花笩、花色衣、花篝・・・。

この季節の食材も桜鯛、桜鱒など、まるで春そのものを身体の中に取り込んでいるようです。

桜の歴史を振りかえってみましょう。

奈良時代には花といえば梅のこと。貴族たちは、花そのものよりも香りを楽しみました。

梅見の宴は、中国から導入され、流行したのでしょう。

万葉集には、梅を歌ったものが、桜の歌よりも多く残されています。

平安時代に入り、遣唐使が廃止されると、桜ブームが到来します。古今和歌集には、桜の歌が、梅の歌より多く残されました。

日本初の花見は、嵯峨天皇が主催。

812年、神泉苑にて「花宴の節(せち)」を催したと『日本後記』に記載されています。

鎌倉時代から室町時代を経て、花見は武家社会にも浸透していきます。華やかな宴会型の花見が始まったのは安土桃山時代です。

歴史上最も有名な花見は、豊臣秀吉が催した「吉野の花見(1594年)」や「醍醐の花見(1598年)」です。秀吉は醍醐の花見に1300人の女性を招待。一人に三着ずつ豪華な着物を誂えました。摺箔や、かのこ絞り。その様子が絵巻に残されています。現在のお金に換算すると39億円の出費だったとも言われます。また秀吉の命により、10日間に700本の桜の木を植えたことが記録されています。何ともスケールの大きな花見だったことでしょう。

この一大ファッションショーは神さまに見せるものだったと言われています。桜は神の木。

「サ」は田の神。

「クラ」は倉や鞍を意味し、そこに存在していただくこと。

秀吉ご一行の豊作の祈り方は、かくも豪華だったのです。

江戸時代には、お花見は、庶民つまり商人たちにも定着します。八代将軍吉宗の政策により、「庶民のための花見文化」が誕生。1720年に浅草(豊田川堤)や飛鳥山に大規模な桜植樹をし、庶民が桜を楽しむ場を提供しました。

おしゃれな将軍だったのですね。

クリニックの窓から満開の桜が見えます。

今年も健康で「サ」の神さまが「クラ」してくださる花を、愛でることができました。感謝の気持ちでいっぱいです。

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内科医院 英語による診療 糖尿病療法士 金沢・広坂 ホスピタリティ

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